戦国【光秀】情熱12話前半
「何か気がかりなことでも……?」
光秀「……まあ、あるといえば、ある」
すっと近づいてきた手のひらが、私の頬を包み込む。
感情を隠すことに長けた瞳が今は、憂いを帯びている。
光秀「美香。俺とひとつ、約束をしろ」
(約束……?)
光秀「お前は金輪際、戦場に立ち入るな」
「え……?」
光秀「できることなら、義元殿の説得にもお前を連れて来たくはなかった。義元殿が将軍の元を去るきっかけを与えたお前に、今川家の家臣たちが襲いかからないとも限らない」
「危険は承知の上です。義元さんが心配ですし、それに私、光秀の役に立ちたくて……!」
光秀「お前の心はわかっている。この取り引きにお前の力が必要だと言うことも。何かあれば俺が必ず守る。だが……前線になりうる場所に連れていくのは、今日限りだ」
愛おしげに、手のひらが私の頬を撫でる。
光秀「義昭様との決着の時が来たら、お前には安全な場所で待機してもらう」
「……そばを離れるなって、言ってくれたじゃないですか」
光秀「戦となれば話は別だ。前日の本能寺での一戦……内心、気が気じゃなかった」
普段は余裕に満ち溢れている瞳が、わずかに揺らぐ。
光秀「今のとなっては……安土へ来たばかりのお前を迷わず戦場に連れ出せたことが、不思議に思える」
「あの時、光秀さんは……何も知らない私に、この時代の現実を、教えてくれたんでしたね」
光秀「……そうだったな」
ふと押し黙り、見つめ合って気づく。
焼け野原で立ちすくんだあの日から、私たちはずいぶん遠くまで来てしまった。
引き返せないほど、愛し合ってしまった。
(もう、何もかもが違う。私だって、叶うことなら光秀さんに、二度と戦には行かず穏やかに暮らしてほしい。でも……時代のうねりが、光秀さんを離さない)
時には固く繋いだ手を解かなくては、守れない絆がある。
愛には痛みを伴うことを、私は生まれて初めて知った。
光秀「約束しろ、美香。戦になったら安全な場所で大人しく俺を待つと」
「もし、断ったら……?」
光秀「そうだな……。お前が『うん』と言うまで、くすぐり倒していじめるとするか」
光秀さは微笑んで、いつものように軽口を叩くけれど–––
(手が、少しだけ震えてる……)
怖いものなしだったこの人に、弱点が生まれてしまった。
それが私自身であることが、たまらなく嬉しく、それでいて苦しい。
(本当はそばで戦いを見届けたい。でも……そうすれば、行動の足かせになるだけじゃなく、光秀さんの心にまで、枷をはめることになる)
隣になくても、光秀さんの命をつなぎとめることのできる自分であれたなら–––
こめかみが痛むほどの、強烈な願いが湧き上がる。
(そのためには……私のすべてで伝えるしかない。光秀さんを、愛しているって)
頬を包む手に触れ、そっと口元に導く。
思いを込めて、その指に口づけた。
光秀「…………」
「わかりました、約束します。ただその代わり……私の心を、戦場に連れていって。何よりあなたをかけがえなく想う私の気持ちを、決して離さないで」
光秀「美香……」
「そして、光秀さんも約束してください。戦いに赴くのなら、絶対に生きて、私の元に帰ってくるって」
「……いつからお前は、そんなにも強くなった?」
「あなたに恋をしてからです」
微笑むと、光秀さんの口元もほころんだ。
光秀「約束は破る方が得意だが……今回ばかりは、果たすとしよう」
額に、触れるだけのキスを落とされる。
この唇の柔らかさを、いつまでも覚えていようと思った。
幸村「おい、美香、光秀!」
(え……?)
遠くから呼びかけられ、光秀さんと共に振り返る。
佐助「その辺を探索していたところ、予想外の事態になりました」
九兵衛「義元様を説得するに当たり、吉と出るか凶と出るか、なんとも言えないところですね」
三人が顔を見合わせて背後に目を遣る。
そこに広がる光景に、私は目を見開いた。
(この人たちは……!)
光秀「凶だろうと吉に変えてみせるまで。義元殿の元へ急ぐぞ」
…………
(いた……!)
森の奥深くを流れる小川のほとりで、義元さんはひとりきりでうずくまっていた。
「義元さん!」
義元「美香……っ?」
幸村「もう逃がさねーからな、バカ元!」
佐助「観念してもらいます、義元さん」
義元「幸村、佐助。光秀殿まで……」
光秀「諸事情あって、あなたに会いに来た」
(元気そうでよかった! それにしても……)
「あの、しゃがみこんで一体何を……?」
義元「このきのこ、美しいと思わない?」
異様な形をした妙に鮮やかな紅色のきのこを指さし、義元さんはにっこりと微笑む。
幸村「お前……っ、のんきにきのこ狩りしてたのかよ!」
義元「これを美術品として収集しようと思って。どんな時でも美しいものは見過ごせないからね。人の手が造りだす美も素晴らしいけど、自然の生みだす美も格別だ」
(相変わらずマイペース……。いつも通りでちょっとほっとした)
義元さんがしゃがんだまま顔を上げ、優美に微笑む。
義元「幸村、佐助。追ってきてくれたことは嬉しいけど……俺は今後、自分ひとりの力で生活していくよ」
佐助「それは、あまり賛成できません」
佐助くんは素早く義元さんの背後に回ると、羽交い締めにした。
義元「……」
「佐助くん……!?」
佐助「ひとまずこの場を離れてもらいます、義元さん」
義元「佐助、俺は美術品収集の途中で……」
きのこに伸ばされた義元さんの腕を、佐助くんがパシッと叩く。
佐助「義元さんが収集しようとしてるきのこは、美術品じゃなくて、猛毒です」
義元「え……?」
佐助「これはカエンタケ。触れるだけで皮膚がただれる、猛毒を持つきのこです」
(そうなの!? 不気味な見た目だとは思ったけど……)
義元「へえ……物知りだね、佐助は。美しい上に猛毒を持っているなんて、ますますそそられるな」
(義元さんの美しいものへの執着は、並みじゃないな)
幸村「バカ言ってんな義元! 毒で死んだら、美しいもへったくれもねーだろうが」
佐助「義元さんを野山にひとりにしておけないことは、誰の目にも明らかだな」
(浮世離れしてるなと思ってたけど、放っておけないひとだな、義元さんって……)
「義元さん、どうか幸村と佐助くんと一緒に、越後へ戻ってください。色んな意味で心配なので」
義元「……なるほど。俺を説得するためにこはるをわざわざ連れてきたわけか」
するりと佐助くんの腕から抜け出し、義元さんは優美に着物の乱れを直す。
義元「気持ちはとても嬉しいよ。でも、俺は……今川家の当主であることをやめたんだ」
(当主を、やめた……)
義元「『今川家の人間として有終の美を飾りたい』という彼らの願いを、俺は叶えてはやれない。だからせめて、滅びた名家の呪縛から彼らを解放することにした。家臣たちには財を分け与えて暇を出した。今頃、新たに仕える将を探してるはずだよ」
佐助「義元さんは、この先どうするつもりなんですか」
義元「俺は……これからどう生きるべきか、しばらくひとりで考えてみるよ」
光秀「あなたがひとりになることはありえない、義元殿」
義元「え……?」
光秀「お届けものだ。九兵衛、彼らをここへ」
九兵衛「はっ」
義元「……! お前たち……」
九兵衛さんが引き連れてきたのは……
幸村たちが森の中で見つけた、今川家家臣の一団だった。
義元「……どうして戻ってきたの」
今川家の家臣「……今になり、ようやくわかりました。あなたが我々のことを思いやってくださっていたと。本能寺の戦のさなか、我らが名誉の代償に捨てようとした命を、あなたは拾ってくださった。
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義元「光秀殿。俺を、ここで殺してほしい」
光秀「殺せ、だと……? なぜ」
義元「そうすれば、諦めの悪い家臣たちも、さすがに受け入れられるだろうから。今川家が滅んだ事実をね。その代わり、彼らの命は見逃してくれ。……後生だ」
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今川家の家臣「敵に情けをかけられて逃げるおつもりか!? 今度という今度は見損ないましたぞ! 死んでも今川家の誇りを守らねば!」
義元「命を粗末にする人間に、誇りを語る資格はない!」
今川家の家臣「…………っ」
義元「今のは、俺自身への戒めだよ」
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今川家の家臣「我々の仕えるお方は……あなたしかおりません。しかし、我々のしてきたことを思い返すと、お見せする顔もなく……」
幸村「こいつら、戻るに戻れなくて、お前に隠れて森ん中をうろうろしてたんだよ」
義元「…………」
光秀「俺らを率い、共に義昭様と戦ってはもらえないか?」
義元「義昭様と……?」
光秀さんは、義昭様の陰謀のすべてを義元さんに語った。
その魔手が、織田軍を越え、越後にまで及んでいたことも。
義元「…………」
光秀「義昭様の企ては信長様を倒すことのとどまらない。日ノ本全土を手に入れようとなさっている。天下静謐–––自身が唯一至高の権力者となり、その他の者をすべて等しく卑しい民として統治する。その望みを成すためにあの方が選んだ手段が、力のある将の、暗殺だ。企みを止めない限り、あの方の手は上杉武田にも及ぶだろう」
義元「…………」
長い沈黙のあと、決然とした声が森に響いた。
義元「わかった、将軍を倒す力になろう」
「本当ですか……!」
義元「当分は、当主を続ける必要がありそうだしね」
(よかった……!)
義元「でも、俺は俺の都合で、勝手に謙信と信玄の元を離れた身。これ以上、彼らに甘えるわけにはいかないよ」
幸村・佐助「…………っ」
「待ってくれてる人がいるなら……その人達と生きることを選ぶのは、甘えじゃないと思います」
義元「え……?」
「大事な相手がいる場所が、新しい故郷になる……そういうことも、あるんじゃないでしょうか」
一語ずつ、考え考えそう口にすると、義元さんの瞳の奥が揺れた。
義元「……不思議だね。君の言葉には、やけに心が揺さぶられる」
(もし、そう感じてもらえてるんだとしたら……)
「それはきっと、私があなたと同じで、生まれ育った故郷をなくした人間だからかもしれません」
幸村・佐助「…………」
光秀「…………」
(私は偶然、この時代にタイムスリップしてきて、現代に帰らないと決めた。戦で故郷を失った義元さんとは、状況が全然違うけど……ひとつ共通点がある。故郷から遠く離れた場所で、かけがえのない出会いをしたことだ)
「二度と故郷には帰れない。その分余計に……新たに出会った大事な人のかけがえなさが、よくわかるんです」
佐助「美香さん、君は……」
「……こんな形で伝えることになってごめんね、佐助くん。でも、決めたんだ。私はここで出会った人たちと……光秀さんと、新しい人生を歩むって」
目を見開く佐助くんに、私は自然と微笑んでいた。
後悔は、微塵もない。
義元「……わかった。美香がそこまで言うのなら、俺も意固地にならずに、もう少し迷ってみることにしようかな」
「ぜひ、そうしてください!」
幸村「ったく、めんどくせーな。いーから『帰る』って言え!」
佐助「まあまあ。前向きに考えてくれるようになっただけでも一歩前進だ」
義元「……ありがとう、美香。君には感謝してもしきれない」
「いいえ」
義元「嬉しかったよ。君が、俺を追いかけてきてくれて」
優美な仕草で伸びてきた手が、私の手に触れようとした時、
(わっ)
光秀さんに、ぐいっと肩を抱き寄せられた。
光秀「義元殿、ゆめゆめ勘違いなさらぬよう」
義元「勘違いって?」
光秀「こはるは幸村殿と佐助殿に頼まれ、優しさゆえにあなたの説得を引き受けたまで。今後一切、この娘に必要以上に近づくな」
義元「『必要以上』って、どれくらい? 手を握るくらいは許されるでしょう」
光秀「では言い換えよう。常に百歩以上こはるから離れていろ」
義元「顔も見えないよ、それじゃ」
光秀「では千歩」
義元「増えたよね」
「あの、光秀さん……、もしかして焼きもちですか? なんて……」
光秀「そうだが、何か?」
(っ、冗談のつもりだったのに……)
平然と言い返され、頬がカッと熱くなる。
光秀「自分で言って照れていては世話がないな」
光秀さんは笑って、私の頭をよしよしと撫でた。
義元「ふうん、見せつけてくれるね」
光秀「ご理解いただけたかな?」
義元「問題ないよ。俺は、気が長い方だから」
私に向かってにっこりと微笑む義元さんは、爽やかな色気を漂わせている。
義元「美香。気が向いたら、いつでも俺のそばにおいで。喜んで俺は、君の第三の故郷になるから」
(ええっと……冗談、だよね……?)
幸村「その辺にしとけ。美香が困ってるだろーが」
佐助「幸村の言う通りだ。義元さん、大事な話の途中です。こはるさんと光秀さんは、あなたを説得するという俺たちの依頼を見事果たしてくれました。今度は、俺たちが報いる番です。越後の未来のためにも」
義元「……そうだね」
義元さんの背後で、今川家の家臣たちも深く頷き合う。
光秀さんはにやりと笑い、みんなを見回した。
光秀「ではご一同。戦支度にかかろうか」
…………
義昭「……化け狐が、女を連れていると?」
義昭の使者「はっ」
質素な広間で、義昭は脇息にもたれていた身をゆっくりと起こした。
新たな根城には、京から遠くないひなびた小国の城が選ばれた。
光秀に張り付かせていた使者がもたらした知らせに、本能寺で負った傷口が疼く。
義昭の使者「祭りで無礼を働いた愚かな大名が、義昭様の夜伽にと呼び寄せた者です」
義昭「……舞台上で、狐がさらってみせた女か。あのようなことさえなければ、下賎な女の顔を私が覚えていることなどないのだがのう」
義昭の使者「光秀は今川義元や上杉武田の家臣と組み、いずれこの城へ攻め込むつもりのようです。いかがいたしましょう」
義昭「……ひとつ、揺さぶりをかけてやろう。私に逆らえばどうなるか……生き地獄を味わうがいい」
光秀「美香は、ここまでだ」
「……はい」
戦へ赴くみんなと一緒にいられたのは、京の町外れまでだった。
(私にできることはもう、祈ることだけか……)
待ち受けるのは将軍との決戦–––数えてみると、乱世へやってきて今日でちょうど三ヶ月目だ。
あれから佐助くんと、ふたりきりで少しだけ話をした。
佐助くんも、乱世に残る決意をしたそうだ。
私と同じで、この時代で大事な人たちに出会ったから……柔らかな表情でそう話してくれた。
佐助「美香さん、今夜を逃せば俺たちはもう戻れない。君のファイナルアンサーは?」
「覚悟は決まってるよ。佐助くんも……」
佐助「ああ、同じだ」
囁き合い、私たちは微笑みを交わした。
九兵衛「さて、我々は先に行っております、光秀様」
佐助「美香さん、行ってきます」
幸村「大人しく待ってろよ、美香」
「行ってらっしゃい! どうか気をつけて」
義元「俺は美香ともう少し、ゆっくり別れを惜しみたいんだけど……」
幸村「いーから一緒に来い、バカ!」
辺りが静かになり、光秀さんと私だけが残された。
(九兵衛さん、お別れの時間を作ってくれてありがとう……)
光秀「では美香、約束を守り、良い子にしていろ。もしも破れば……ひどいぞ?」
ぞくっとするような容赦のない声に、深く頷く。
光秀「それでいい。約束を守れたら、たっぷりとご褒美をやろう」
光秀さんの手が私の首に触れ、うなじをやんわり撫で上げる。
(ぁ……っ)
この指にすっかり飼いならされた私の肌は、それだけであっけなく疼いた。
「……ちゃんと、守ります。光秀さんも、約束、守ってくださいね」
答えの代わりに、顎をそっと持ち上げられる。
私は目を閉じて、口づけを待った。
–––それは、一瞬の出来事だった。
ヒュッ–––!
光秀「!?」
(え……っ?)
何かが肩を掠めたと思ったら、燃えるように肌が熱を放ち始めた。
「……っ、あ、れ……、なに、これ……?」
身体がピクリとも動かなくなり、世界が揺れる。
光秀「美香!」
倒れ込んだ私を、たくましい胸板が支えてくれた。
地面に突き刺さった矢が、視界の隅に見える。
何か言おうとするけれど、舌がもつれて動かない。
「あ……う……」
光秀「毒矢か……!」
(……っ、頭が、くらくらする……)
光秀「美香! 美香……!」
「みつ、ひで、さ……」
視界が霞む中、必死に伸ばした手は、光秀さんの頬に触れる直前、鉛のように重くなり、ぶらんと垂れ下がった。
光秀「しっかりしろ! 美香! 美香……!」
感情をむき出しにした声が、遠くなって–––
私の意識は、暗闇に呑み込まれた。