戦国【光秀】共通2話 前半
(はぁ、気が重い……)
身支度の仕上げに髪を結び終えたのと同時に、襖がスパンと開かれた。
光秀「おはよう。美香。支度はできているようだな」
「っ……はい、おはようございます」
油断のならない微笑を目にした瞬間、背筋はピンと伸びていた。
光秀「そう身構えるな。指南役の俺まで緊張してくるだろう?」
「バレバレの嘘をつくのはやめてください、光秀さん……」
今日から、光秀さんによる戦国時代の生き抜き方指南が始まる。
私を監視する名目として。
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光秀「戦場での見事な怯えっぷりを見る限り、お前がいつ信長様のおそばから逃げ出しても不思議はない。そこで逃亡防止のため、しばらくの間お前を監視することにした。俺が直々にな。信長様にご心配をおかけしないよう、表向きは、お前の指南役を引き受けたことにする。戦の基礎知識、世の情勢、馬術、護身術、銃の扱いもついでに教えておくか」
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(見張らなくても逃げたりしないって何度言っても、信用してもらえなかった。まあ、乱世のことを学べるのはありがたいことではあるけど……)
問題は科目があまりにも物騒な点、そして、先生が光秀さんという点だ。
(人の考えをバンバン見抜くのに、自分の考えをちっとも相手に読ませない。それに……)
彼がためらいもなく敵将を倒したあの数秒を、私は生涯忘れられないだろう。
『人殺しに礼などするな』と言った時、光秀さんはとても厳しい目をしていた。
(この人の読めないお腹の底には、途方もない何かが隠されてる気がする……)
光秀「考えごとは済んだか、美香? 気の抜けた表情を改めて、席につけ」
「っ……はい」
光秀「では、各国の情勢を学ぶことから取り掛かろう」
文机の前に座ると、一枚の髪を差し出された。
光秀「まずはお前の知識の程度をはかる。簡単な問題を用意してきた。これを解いてみろ。当たり前のことばかりで手ごたえがないだろうが、辛抱しろ」
「が、頑張ります」
(実質、歴史のテストだ……。私の貧弱な日本史の知識で太刀打ちできるかな)
…………
採点を終えると、光秀さんは感心したような表情で顎に手を添えた。
光秀「……いやはや、度肝を抜かれたな。お前の頭脳には驚かされる」
「よかった……! 案外正解できてました?」
光秀「逆だ」
(わっ……)
耳たぶを指でピンと弾かれ、とっさに手のひらで耳を隠す。
光秀「お前の耳と目は飾りか? 今まで何を見聞きして生きてきた? 信長様の幼名の解答が『のぶたん』とは……あまりに斬新で涙が出そうだ」
「無解答よりはいいかと思って……子どもの頃のあだ名を予想してみました。ほとんどの問題が解けなかったので、せめてやる気だけでも見せようかと……」
光秀「なるほどなるほど。なかなかに鍛えがいのありそうなおつむだな」
(……っ)
あやすように頭をひと撫でされ、反抗心がむくむくと湧いてくる。
「子ども扱いしないでください。ちゃんと勉強すれば社会情勢くらい理解できます、大人ですから!」
光秀「言ったな?」
…………
(頭が爆発しそう……!)
数刻後、集中力を使い果たした私は文机につっぷした。
光秀「美香、まだ講義は終わってないぞ」
「情報量が多すぎます……。室町幕府の成り立ちから歴代将軍が何をしたかを一気に覚えろだなんて」
光秀「前置きの段階で泣き言を言われてはお話にならないな」
(何時間もぶっつづけで講義して、まだ前置きなの……!?)
光秀「本題はここからだ。歴代将軍、足利家の衰退を背景に世は乱れ、各国の武将が権力を握った。過去があってこそ今がある」
(それはそうだけど……)
「せめて休憩を挟んでもらえませんか? 詰め込んだ知識がそろそろ耳からこぼれそうです……」
光秀「そういうことなら」
(ひゃっ!?)
両手で耳元を覆われ、周囲の音が遠のく。
(っ、光秀、さん……?)
ひんやりした親指の先が、そっと私の目元をなぞった。
光秀「知識がこぼれないように俺が耳をふさいでおいてやろう。安心して休憩するといい」
「こんなふうにされて気が休まるわけないでしょう……っ」
光秀「おっと」
固い胸板を押して、部屋の隅まで急いで逃げる。
(……びっくりした……)
間近に顔を寄せられて気づいた。この人が笑うと、長いまつ毛が頬に影を作る。
思わず見惚れたなんて絶対に内緒だ。
光秀「やれやれ。取って食いはしないと何度も言っているのに」
「だったら、取って食いそうな空気を出すのをやめてください……」
光秀「それはできない相談だ」
スタスタと歩み寄り、光秀さんは悪びれもせず私の顔を覗き込む。
光秀「お前はからかうといい反応をするからな」
(っ……前から薄々思ってたけど)
「光秀さんは、意地悪です……!」
光秀「おや、今頃気づいたのか?」
(ノーダメージ……!)
悔しさを噛み締め、笑みをにじませる切れ長の瞳をにらみ返していると–––
蘭丸「お邪魔しまーす! 美香様、お勉強は順調?」
三成「光秀様が指南役をお務めになると聞き、どんな様子かお伺いに参りました」
「蘭丸くん、三成くん……!」
襖から顔を出したふたりを見た途端、ささくれだった心がふっと和んだ。
蘭丸「光秀様、美香様を部屋の隅に追い詰めて何してるの?」
光秀「意地悪を少々」
(これで『少々』……? 先が思いやられる……)
三成「美香様、お疲れのご様子ですね」
「朝からずっと講義続きだったから。休憩をお願いしたところなの」
三成「それはちょうど良かったです。お茶をお淹れしようと思い、茶葉を持って参りました」
蘭丸「はいはーい、俺が淹れたげる! 三成様はお手伝い役ね」
「わぁ、ありがとう!」
(助かった、やっと息がつけそう!)
長時間の緊張から解放されたその時、また襖が勢いよく開いた。
政宗「おっと、先を越されたか」
「政宗、どうしたの?」
政宗「お前に差し入れを持ってきた」
政宗に渡された包みを開くと、ふかしたてのお饅頭が湯気を立てていた。
(美味しそう……!)
「ありがとう、政宗! みんなでいただこう」
お茶会の支度が整う頃、またひとりお客さんが姿を見せた。
家康「勉強してるって聞いたけど間違いみたいだね。こんなところで集まって油売って、全員暇人なの」
(家康まで! 光秀さんが私の指南役になった話、みんなに広まってるんだな)
三成「家康様も美香様に差し入れですか? ぜひご一緒いたしましょう」
家康「は? どうして俺がこの子に差し入れなんてしなきゃならないの」
政宗「じゃあ手に持ってるそれはなんだ? 見せろ、家康」
家康「ちょ、政宗さん……っ」
(壺? わっ、辛そうなお漬物……! 唐辛子がこれでもかってくらい入ってる)
蘭丸「なーんだ、やっぱり家康様も差し入れにきたんじゃん。お茶請けによさそうだね」
家康「……作りすぎて余ったから、美香にでも渡して処分しようと思っただけ」
三成「相手に遠慮をさせない物言い……さすがは家康様です」
家康「違う、ただの事実。じゃ、俺はこれで……」
三成「ねぎらいの品だけ届け、長居はしない……。これが本物の気遣いなんですね!」
家康「お前と話すとほんと疲れる……」
(家康は三成くんのこと苦手なのかな。三成くんは家康を慕ってるみたいだけど……)
政宗と蘭丸くんが笑いを堪えてふたりのやり取りを眺めているところを見ると、いつものことのようだ。
家康「三成に妙な勘違いをされるのは癪だから、やっぱりお茶だけ飲んでいく」
蘭丸「じゃ、これ、家康様の分ね!」
政宗「ほら、美香も。冷めないうちに食え」
「いただきます! ……美味しい! ほんのり甘くて、いくらでも食べられそう。元気になってきたよ」
政宗「当然だ、そうなるように作ったからな」
「わっ、家康のお漬物、美味しいけど相当辛いね……!」
家康「これでもかなり辛さ控えめにしたんだけど
」
三成「美香様の味覚に合わせて加減なさったんですね。そのお優しさ、見習いたいものです」
家康「だから、違うから」
「お茶も香り高くて気持ちが安らぐな」
三成「それは何よりです。秀吉様がご用意してくださったんですよ」
(秀吉さんが……。そうだったんだ)
三成「美香様によろしくと仰っていました」
政宗「あの世話焼きが顔を出さないとはな」
家康「まあ、そうなるでしょう。光秀さんが指南役なんですから」
(どういう意味だろう……?)
とっさに光秀さんを目で探すけれど、腹の底の読めない笑みは部屋のどこにも見当たらない。
「あれ、光秀さんは……?」
三成「いつの間にか姿が見えませんね」
政宗「大方その辺りで一息入れてるんだろ。にぎやかなのは得意じゃない奴だしな。光秀の分を届けてくる。美香たちはゆっくりしてろ」
お茶とお茶請けをお盆に載せ、政宗が外へと出ていった。
(いなくなったことに全然気づかなかった……。狐に化かされた気分。あっ、もしかして……)
「光秀さんが出ていったのは秀吉さんの話になったからかな。あのふたり、あんまり仲よくないんだよね……?」
蘭丸「仲よくないどころか、犬猿の仲で有名だよ」
(やっぱり……。蘭丸くんが城に戻ってきた時も、掴み合いになる寸前だったっけ)
「信長様の右腕と左腕なのに、犬猿の仲なのか……」
家康「あの人たちは、両極端だからこそ均衡が取れてるんだ。秀吉さんは信長様に心酔しきってる。命がけで主君に忠義を尽くす、家臣の見本みたいな人だ。光秀さんはその反対。主君に仕えることの損得をいつも天秤にかけて、適度な距離を測ってる」
(なんとなくわかるような気がする……)
蘭丸「信長様の小姓としては、いつ信長様の御前でケンカが始まるかわかんなくて、ハラハラしちゃうよ」
三成「実は、秀吉様から『美香が光秀にいじめられていたら報告しろ』と頼まれました」
家康「過保護だね、あの人。こんなひ弱な子を、あの光秀さんが本気で相手にするわけないでしょ」
蘭丸「うさんくさいとこもあるけど、とびきり頭の切れる人だから、先生にはピッタリだと思うよ」
三成「そうですね……。光秀様はただ者ではないお方だと、私も思います」
(みんな、光秀さんに一目置いてるんだ。政宗も光秀さんのあとを追いかけていったし……光秀さんが織田軍の中で重要な位置を占めてるのは間違いなさそう)
心の奥まで見透かすようなあの瞳に、慣れる気がしないけれど–––
(もう少し、あの人とちゃんと向き合ってみようかな)
…………
翌日–––
光秀「今日は実技だ。お前には最低限の身を護る術を習得してもらう」
「よろしくお願いします」
城内の道場で光秀さんと向き合い、私は意気込んで礼をした。
光秀「おや。今日はやけに素直だな」
「無闇にあなたを怖がるのは、やめることにしたんです」
光秀「ほう……?」
からかうような、見透かすような、笑い混じりのこの眼差しはやっぱり苦手だ。でも–––
(目を逸らしていたら、いつまで経ってもやられっぱなしのままだ)
「光秀さんに教わったことをしっかり身につけて、いつか見返してみせます」
光秀「そうか、楽しみにしているぞ」
眼光を少し和らげ、光秀さんは笑みを深めた。
光秀「さて、今日教えるのは簡単な護身術だ。習うより慣れろ、まずはどこからでも俺にかかってくるといい」
「わかりました、本気でいきます! やぁ……!」
(あれ!?)
思い切って体当たりした先は、無人の空間だった。
「!! いたたたた……っ」
派手に転んだ私を、光秀さんが楽しそうに見下ろす。
光秀「見事な突進だったぞ、美香」
「どうして避けるんですか……っ?」
光秀「護身術では、相手の攻撃を真っ向から受けずにいなすことも重要だ。またひとつ賢くなったな」
「それならそうとはじめに言ってください……!」
(またこの人のペースだ……。光秀さんに乗せられないよう、どうにか自分を保たなきゃ)
光秀「それから–––」
光秀「戦に用いる武具についても、知識をひと通り頭に叩き込んでもらうぞ。これが先日の戦で使った種子島だ。持ってみるか?」
「っ、はい……」
こわごわ受け取ると、硝煙のかすかな匂いが鼻につき、両手がズンと沈んだ。
「こんなに、重いんですね……」
(光秀さんはこれを軽々使いこなしてた。細身に見えても、身体を鍛え上げてるんだな)
光秀「丁重に扱うように。ひとつ誤れば自分の手が吹っ飛ぶ愉快な代物だからな」
「全然愉快になれません……!」
光秀さんによる乱世の生き方指南は、日に日に過激さを増していき……
光秀「今日は、先日手入れした火縄銃の撃ち方を覚えてもらう」
(本気で銃の撃ち方まで私に教えるつもりだったんだ……!)
光秀「木の幹に的をかけておいた。しっかりと見据えろ。こら、目をつむるな」
「あの、光秀さん、こんなことまで覚える必要はないんじゃ……!」
光秀「覚えて無駄になることはこの世にさほどない。わかったら口を閉じて狙いを定めろ」
震える指を引き金にかけると、否応なしに戦場の記憶がよみがえってくる。
(あの時と同じ、火薬の匂い……)
光秀「撃て、美香」
「…………っ」
重い手応えが骨に響き……すぐに静寂がやってきた。
銃を取り落とす寸前で、どうにか踏みとどまる。
(こ……怖かった……)
光秀「お見事だったぞ、美香。この距離で、的をかけた木の幹にさえ掠りもしないとは、なかなか真似できることじゃない」
いつものからかい文句も、今は耳を素通りする。
「当てるのが、怖いと思いました……」
光秀「ん……?」
「的に当たって……嬉しいと感じてしまうことが」
光秀「…………」
銃の振動が伝わった瞬間、自分の血が、沸き立ったのがわかった。
(怖いのに……どこか、興奮してた。非力な私ですら、これを使えば力を手に入れられる。戦場で人の命を奪ってしまえるほどの力を……)
殺すも殺されるも、自分と同じ人間–––その事実をまざまざと突きつけられた気がした。
光秀「その恐怖を忘れないことだ。撃ち抜く喜びに身を任せれば、銃に殺される」
「光秀さんは……こんな恐ろしい思いを、いつも……?」
光秀「…………。お前は、思いがけないことばかり言う」
問いかけに答えず、光秀さんは微笑んで私の姿勢を正させた。
光秀「さあ、もう一度だ」
「……っ、これ以上は、もう……」
光秀「もう一度だ」
「……はい」
よく響く低い声には、有無を言わさぬ迫力があった。
(……やるしかない。実際に使う機会がないことを祈ろう。これ以上物騒な内容の指南がありませんように……!)
けれど、私の心からの願いは、あっさりと打ち砕かれた。
「光秀さん、さすがにこれは無理です! 絶対無理!」
光秀「大丈夫だ、最初は皆そう言う」
光秀さんは涼しげに言い放ち、私を一頭の馬の前に押しやった。
(いきなり『ひとりで乗ってみろ』だなんて……。本格的に戦場で使える技術を教え込む気だ、この人)
火縄銃の扱いも相当難しかったけれど、今度は生き物が相手–––自分の思い通りに動かせるわけじゃない。
(この馬、かなり大きいし、もし振り落とされたら……っ)
想像するだけで、背中を冷汗が伝い落ちる。
「光秀さん、私の身体能力には限度というものがあるんです……!」
光秀「自分で自分の可能性を狭めるのは感心しないぞ」
「そういう話はしてません! そもそも光秀さんは私を監視できればいいんでしょう? 素人の私に鉄砲の扱いや乗馬を教え込むのに、これほど労力をかける必要はないんじゃ……っ」
光秀「必要はないが、お前をいじめるのが思いのほか楽しくてな」
(そんなドSな理由で訓練を……!?)
光秀「まあ、そう力むな、馬が怯える。自分が行きたい方向をはっきり示せば自然と応えてくれる。しがみついたり、大声をあげたりすることもやめておけ。馬の嫌がることをしてはいけない。安心しろ。この栗毛はお前の数倍は賢い」
励ますように肩を叩かれたけれど、もう我慢の限界だ。
「無理なものは無理です! 自分の楽しみのために、人をいじめるのはやめてください……!」
光秀「…………」
私は光秀さんの手を押しやり、振り返らずに駆け出した。
「はぁ……はぁ……っ」
(追ってこない……。逃げ切れたかな)
胸に手を当て呼吸を整えていると、前方から足音が近づいてくる。
(!? まさか……!)
光秀「まったく、手のかかる弟子だ」
「どうしてここに……!」
光秀「先回りして逃げ道を塞いでおくのは、兵法の基本だろう?」
(っ……どこまで行っても、この人の手のひらの上なの……?)
光秀「戻るぞ。馬が待ちくたびれている」
「嫌です、私はここを動きません……っ」
光秀「言うことを聞かない駄々っ子は、お仕置きあるのみだ」
「え? わ……!?」
抵抗も虚しく、片腕で無造作に担ぎ上げられる。
下されたのは、馬の鞍の上だった。
(……! た、高い……!)
光秀「城を一周するまで戻って来なくていいぞ、こはる。–––行け」
「きゃ……!?」
光秀さんに尻を叩かれた馬が、いなないて駆け出した。
慌てて手綱を掴み、足を締める。
あっという間に城門が近づいて……
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……! このままじゃ城下町に暴れ込んじゃう)
風が頬を叩き、眼前の風景が左右に飛びすさる。
「お願い、止まって……! 言うことを聞いて!」
恐怖に駆られてたてがみにしがみつくと、馬は前脚を蹴り上げた。
(っ、落ちる……! 短い人生だった……)
覚悟を決めた私の身体は、石畳に打ち付けられ–––
は、しなかった。
(あれ……?)
光秀「お前は本当に、俺の言うことを聞かないな。困った子だ」