戦国【光秀】共通4話前半
光秀「いいか、美香。誰もがお前のような清い心を持っていると思ったら、大間違いだぞ」
光秀さんは後ろ手に襖をパン、と閉めたかと思うと、座布団に座る私の方へ一歩踏み込んだ。
(な、何……?)
片膝をつき、私の前にしゃがみ込む。
濃い影が落ち、長い前髪がさらりと私の額をくすぐった。
光秀「世の中、隙あらば人の良心につけ入り、甘い汁を吸おうとする輩の方が多いものだ。現に、今も」
低く掠れた声で囁きながら、薄い唇が私の耳に近づいて–––
(ぁ……っ)
ふ、と吐息を注ぎ込まれ、呼吸が止まる。
光秀「ここは俺の御殿だ。声を出そうが人は来ない。–––どうする?」
(どうする、って……)
私の反応を楽しんでいるような眼差しに、頭の芯がカッっと燃えた。
「……っ、こうします!」
手のひらを重ね、思い切り突き出す。
光秀「……!?」
掌底が胸にぶつかる寸前で、手のひらで受け止められてしまった。
光秀「何のつもりだ?」
「光秀さんが私に教えたんでしょう、先手必勝だって……! 人が真剣に話してるのに……からかわないで」
光秀「…………」
憤りにまかせ、手に力を込め続ける。
(光秀さんが噂を聞いて落ち込んでるかもって、勝手に思い込んで、御殿に押しかけて……空回りしたのは私の自業自得だ。でも……っ)
「あの噂は嘘ですよね……!? そうなんでしょう?」
光秀「美香……」
「こんな時まで、はぐらかさないで……!」
光秀「……悪かった。お前をいじめるのが楽しくて、ついな」
力を込め続けていた両手が急に自由になって、身体がよろける。
(わ……っ)
厚い胸板に抱き止められ、胸の中にすっぽりとくるまれた。
「っ、何、するんですか……」
光秀「お前をあやしている。–––機嫌を直せ、美香」
(っ……結局、はぐらかすんじゃない。私がなんで怒ってるか、わからないのかな。ううん……光秀さんはわかってる。わかってて、あえて、はぐらかすんだ)
自分の心は決して明かさず、私の心を見透かして、うまく転がしてしまう。
背中をさする手のひらが優しくて、振りほどけない。
(本当に、意地悪。全然、納得してないのに、こんなふうに甘やかされたら、怒っていられない……)
光秀「機嫌は直ったか?」
「…………」
答えあぐねていると、するりと腕がほどかれた。
光秀「駄目か、どうやら俺ではご不満らしい。おいで、美香」
(え……?)
連れ出された御殿の庭を見て、驚いた。
(狐がいる……。しかも、真っ白!)
光秀「ちまき、客人だ。丁重にもてなせ」
「『ちまき』? この子の名前ですか?」
光秀「家臣たちがそう呼ぶんでな」
ポカンとする私の足元に、白狐は優雅に歩み寄ってきた。
(わぁ……)
すり、と脚に身を寄せるその子の背を、恐る恐る撫でてみる。
光秀「その調子だ、ちまき。俺の代わりに美香のご機嫌を取ってくれ」
(そのために庭先に……)
この人なりの仲直りの提案なのだと思うと、怒り出していいのか、苦笑していいのか、わからない。
わからないから、話を逸らした。
「……この子の名前、どうして『ちまき』になったんですか?」
光秀「以前、庭先で文を書いていた時に、こいつが迷い込んで来てな。腹を減らしているようだったので、懐に入れていた『ちまき』をやったら居ついた。ねぐらはよそにあるようだが、よくこうして顔を出す」
(野生の動物が懐くなんて珍しい……。人を全然怖がってないみたい)
「それにしても、光秀さんにもちゃんと好きな食べ物があるんですね。持ち歩くくらい、ちまきがお気に入りなんですか?」
光秀「いや。あの時は『せめて一日一回は食事らしい食事を』と、九兵衛に無理やり押し付けられたんだ。皮をむくのが面倒で手をつけずにおいたが、無駄にするには忍びなかったので、ちょうどよかった」
「皮をむくのが面倒だから食べないなんて……。食に興味がないにもほどがありますよ。ちまき、もちもちして美味しいのに」
光秀「どんな食い物だろうが、腹に入ってしまえば同じだ」
(その通りではあるけど、賛成しがたい……)
しばらく撫でると、ちまきは満足したのか、ケーン、と歌うように鳴き、去っていった。
(ふふ、気まぐれな子だな。手並み、ふかふかだった……)
光秀「効果はてきめんだな」
「え? ひゃ……っ」
ふに、と頬をつままれ、自分が微笑んでいたことを知らされる。
「っ……ちまきの可愛さと、さっきの件は別ですよ。納得したわけじゃないです」
光秀「お前が笑ったから俺はそれでいい」
(っ、私はよくないのに……。そんな嬉しそうな顔しないでほしい)
言い返す言葉を探していると、背後から声がかかった。
九兵衛「光秀様、そろそろ」
光秀「ああ」
(……! そうだ、光秀さん、仕事中だったんだ)
「あの、突然押しかけたことは謝ります。すみませ……」
光秀「美香、明日は久々に乗馬の稽古をつけてやる」
「え……?」
謝罪の言葉を最後まで言わせず、光秀さんは私に背を向け歩き出す。
光秀「遠乗りをして稽古の成果を見る。覚悟しておけ」
「は、はい……」
(結局、光秀さんは、裏切りの噂が嘘だとも本当だとも言わなかった)
帰り道、自分の影を踏みながら、もどかしさを噛みしめる。
手のひらで転がされるうちに、怒りでトゲトゲしていた心が、すっかり丸められてしまった。
(明日もう一度ちゃんと話そう。噂は嘘だとは思うけど、光秀さんの口から、裏切ってないって言葉を聞きたい)
…………
光秀は文机に向かい、わずかな息抜きの間にも新たに積み上げられた文と書簡の山に手をつけていた。
光秀「ん……?」
一通の文が、光秀の気を引いた。
差出人の名のない文を、口元へ運ぶ。
光秀「……ほう。これはこれは」
ふくいくたる香の香りがかすかに鼻孔をくすぐり、夜気にまぎれて消えた。
…………
次の日は絶好のピクニック日和になったけれど、残念ながら遠出を楽しむ余裕は与えられなかった。
「み、光秀さん、待ってください……!」
光秀「ついて来られないなら置いていくぞ」
(こんな人里離れたところに置き去りにされたら命に関わる……! でもこの人ならやりかねない!)
馬に乗り、先へ先へと疾駆する光秀さんを、手綱を握り必死に追いかける。
(うっかりしてた。この人、スパルタなんだった……!)
怖いと思う暇すらなくなり、私は必死に馬を走らせた。
「はぁ……っ、はぁ……」
光秀「よくついて来られたな、褒めてやる」
「ありがとう……ございます……」
(自分の足で走ってるわけじゃないのに、こんなに体力を消耗するんだ……)
光秀「そろそろ馬を休ませるか。ついでにお前も休憩するといい」
「助かります……」
(前なら『人間の休憩がついでなんですか?』って聞き返してたところだけど……)
人を乗せて駆ける馬の方が疲労するのは当然だと、今では理解できる。
湖のほとりに並んで腰を下ろし、水を飲む馬たちを見守った。
汗のにじむ額を、風が撫でていく。
(涼しい……)
光秀「これで、もうお前ひとりで馬に乗れるな」
「命がけの稽古の成果ですね……」
光秀「よかったな、美香。短期間に効率よく習得できて」
「よくないです……!」
光秀「どうどう」
光秀さんは私の抗議を意に介さず、おかしそうに笑う。
(いけない、光秀さんのペースにはまる前に昨日の話の続きをしよう)
「……結局、あの噂は事実無根ということでいいんですよね?」
光秀「ん……?」
「光秀さんが裏切り者だっていう、あの噂です」
光秀「食い下がるな、お前も」
「疑ってるわけじゃないんです。ただ、光秀さんの口から真実が聞きたくて」
光秀「参ったな……。美香かと思って連れてきたが、お前、変装した秀吉だったか?」
「そんなわけないでしょう」
光秀「にしては言うことがそっくりだ」
「見た目が全然違うじゃないですか……!」
光秀「冗談だ。お前の方が秀吉よりずっと可愛い」
「その比較、おかしくないですか……?」
光秀「そうか?」
光秀さんはくすくす笑うばかりで、まともに取り合ってくれない。
(秀吉さんの日頃の苦労がしのばれる……)
「もう。どうして、まじめに答えてくれないんですか……。何を考えてるのか、一回くらい、ちゃんと話してください」
光秀「逆に聞きたいんだが、どうしてそんなに俺の心を知りたがる?」
「どうしてってそれは……、……あれ、どうしてだろう」
光秀「…………」
(たしかに私、どうしてこんなに、こだわってるんだろう。最近この人のことばっかり考えて、悩まされてる)
「うーん……強いて言うなら、光秀さんが本音を隠すから、でしょうか。隠されるから、知りたくなるのかもしれないです」
光秀「なるほど」
「あなたほど意地悪な人、私は他に知りません。ただ……意地悪だけど悪人じゃない気がするんです。あなたに怖い面があることは、知っています。悪い噂もたくさん聞こえてきます。それでも私は……あなたが善人だったらいいと、思ってしまうんです。どうしてかはわからないけど」
光秀「……そうか」
光秀さんは静かな湖面を見つめ、低く潤った声を響かせた。
光秀「悪人か善人か、竹を割るようにスパッと分けられるものでもないだろう。俺の本質が善か悪かは、お前自身の尺度で見極めろ」
(私自身の尺度……)
光秀さんの言葉は、噂の真相への答えにはなっていない。
けれど、はぐらかしたわけじゃなく、初めて聞く彼の本音だという気がした。
光秀「ともかく、お前が無闇やたらと俺を心配していることは、昨日今日でよくわかった。ありがとう」
「っ、いえ……」
(正面切って言われると気恥ずかしいな……)
光秀「お前がそれほどまでに深く俺を想ってくれているとは知らなかった。気づかなくてすまなかったな」
「深く想ってるって……その言い方にはちょっと語弊が……」
光秀「そう照れるな。感謝の念を表して、抱きしめてやろうか?」
「どうしてすぐそういう冗談を言うんですか……!」
光秀「お前が意地悪をしてほしそうな顔をしているからだ」
「そんな顔、今まで一度もしたつもりないです」
光秀「自覚がないのか? 重症だな」
光秀さんが片手を伸ばし、私の顔に添えた。
頬のなだらかな隆起を、親指がゆるりと撫でる。
ドク、と、胸が内側から叩かれる音がした。
「……っ、また、私をあやしてるんですか? それともこれも、意地悪ですか?」
光秀「さあ、どちらだろうな」
(さっきは、本音で話してくれたと思ったのに……)
長い指先は私の髪を絡め取ると、手遊びをするように梳きながら、ゆっくり遠のいた。
光秀「さて、馬たちの元気も戻ったようだし、そろそろ帰るぞ」
「……そうですね」
(……心臓の音、まだうるさい)
頬に残る手のひらの感触ばかりを、意識が勝手に追いかける。
光秀さんは不意打ちで触れては、『離して』という言葉が私の頭に浮かぶ前に、すっと離れる。
いくつもの命の温もりを奪ってきた手はひやりと冷たく、淡い力加減で私を戸惑わせる。
この人は何もかもが、ずるい。
(光秀さんといると不本意なことばっかりだ。……なのに)
巡ってきたふたりきりの時間が、終わるのが惜しい。
(光秀さんの意地悪には、中毒性があるのかもしれない。優しくないくせに、やたらと甘いから)
惚れれば地獄–––町の女性たちの言葉はきっと、真実なのだろう。
(……現代に帰る私には、関係のないことだけど)
光秀「美香、何を呆けている? 置き去りにされたいのか?」
「ち、違います! 待ってください!」
馬に飛び乗り、先を行く白銀の馬を追いかける。
手間取らず駆け出せた自分に、走りながら気づいた。
(いつの間にか私、ずいぶん強くなったな……)
この時代へやって来たばかりの頃、世界のすべてが怖かった。
でも今は、ひとりで立って、走っていける。
「あの、光秀さん!」
光秀「どうした?」
馬を急がせ、隣に並ぶ。
火照る頬を風で冷やしながら、声を張った。
「いつも、ありがとうございます」
光秀「……本当に、どうした?」
「光秀さんのお陰で、馬に乗れるようになりました。他にもたくさん、出来ることが増えました。意地悪なところは改めてほしいですけど……とても感謝しています」
光秀さんは前を向いたまま、流し目で私を見やる。
光秀「俺は俺の都合で、お前を監視しているだけだ」
「光秀さんの本音がどうであれ、私は、ありがたいと感じたんです」
光秀「……そうか」
眩しげに目を細めたかと思うと、光秀さんは視線を前方へと戻し、速度を上げた。
(そっけない反応……。もしかして照れてる……? ……まさかね。とりあえず、感謝の気持ちが伝わってるといいな)
日差しを乱反射する湖を横目に、広い背中を追いかける。
乱世へやってきて一ヶ月が過ぎようとしていた。
…………
翌日、私は秀吉さんから、光秀さんへ渡すよう書簡を預かった。
(光秀さんに会うの、三日連続だな。今日こそは意地悪されても動じないようにしよう)
そんなことを考えながらも、妙に足取りが軽い。
(ええっと、光秀さんの御殿はこっちだっけ……)
…………
(うーん、迷ったみたい……。方角は合ってるはずなんだけど)
行き止まりの道の先は、ひと気のない神社だ。
引き返そうとした時、境内のそばの人影に気づいた。
(あっ、光秀さん……? 誰かと一緒にいる……)
???「急な訪問に応じていただき感謝する。やはりあなたは、我が主の見込んだ通りのお人のようだ」
光秀「御殿にお招きできず失礼いたしました。文をいただいた時は驚きましたが……こちらこそ、よいお話をくださり感謝します。共に手を取り、第六天魔王が牛耳る世を、終わらせることといたしましょう」
(一体、何の話……!?)