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イケメンシリーズ ストーリーのネタバレです

戦国【光秀】共通6話前半

 

(わぁ……!)

 

村の外れに組み上げられた舞台を見上げ、感嘆のため息が出た。

 

その回りで、一座の仲間と思しき人たちが忙しく立ち働いている。

 

光秀「これはこれは、大したものですね」

 

座長「千年に一度あるかないかの、ありがたい機会なんで、お殿様が張り切って用意してくれたんだ」

 

(お殿様……謀反の疑いがあるこの国の大名のことか)

 

座長「うちの一座はこんな大舞台は初めてでなあ。演目の相談に乗ってくれんか、光さん」

 

光秀「俺でよければ喜んで」

 

座長「美香さんには、うちの踊り子連中と一緒に踊ってもらおうかな」

 

(どうしよう! 旅の道中、少しだけ光秀さんに習いはしたけど……)

 

実際に舞台を前にすると、付け焼き刃の技術で一大イベントのステージに立てるとはとても思えない。

 

「座長さん、あの……っ」

 

答えあぐねて言葉が詰まった時、

 

(わ……っ)

 

光秀さんにぐいっと肩を抱き寄せられ、心臓がバクンと跳ねた。

 

光秀「せっかくの機会なんですが、ご遠慮しておきます。実は、妻はまだ見習いの身でして」

 

座長「そうかいそうかい、なら裏方を手伝ってもらおうか。にしてもおふたりさん、目の毒だねえ」

 

光秀「何せ新婚なもので」

 

座長さんが声を上げて笑い出し、光秀さんも調子を合わせ、私の頭に頬を寄せて微笑む。

 

光秀「いやはや、照れるな、美香」

 

「あ、あはは……、そうですね……」

 

距離の近さに気が気じゃないのをひた隠し、私もどうにか笑い声をひねり出した。

 

ーーーーーーーー

 

光秀「俺とお前はこれから、旅芸人の夫婦になる。それが一番自然だからな。あらためてよろしく頼むぞ、美香。お前の夫としてな」

 

ーーーーーーーー

 

(指南役と弟子から恋人同士に、さらには許嫁に、果ては夫婦に……)

 

ずぶずぶと光秀さんの策略にはまり込んでいる気がしてならない、今日このごろだ。

それから座長さんは、一座の仲間を私たちに紹介してくれた。

 

楽師「よく来たなあ、おふたりさん!」

 

光秀「次の祭りまでの短い間だが、どうぞよろしく」

 

光秀さんは武将のみんなに対するのと同じように、自然と対等に振る舞っている。

気さくにみんなと声をかけ合う様子を見ていると、光秀さんは本物の旅芸人なのだと錯覚しそうだ。

 

(誰も、この人が偉い武将だなんて思いもしないだろうな)

 

光秀「おや、その足はどうなさった?」

 

楽師「戦に巻き込まれてなあ……。使い物にならなくなっちまった」

 

光秀「そうか……。手伝えることがあれば、何でも声をかけてくれ」

 

踊り子「いーい男だねえ。男連中はウカウカしてらんないよ」

 

光秀「そういうあなたもいい女だな。この一座は美男美女ぞろいらしい」

 

座長「へーえ、それじゃ、わしもかい?」

 

光秀「それはもう、座長が美男の筆頭でしょう?」

 

座長「ははは! うまいねえ、光さんは!」

 

光秀さんを中心に、笑いの輪が広がっていく。

 

(驚いた。光秀さん、あっという間に馴染んじゃった……)

 

旅立つ前に、この時代の旅芸人という仕事について少し調べた。

 

一部の芸術家を除けば、身分の低い人々や戦火に巻き込まれ国を失くした人々が少なくないそうだ。

この時代の人にとって身分がどれほどの重要か、今では知っている。

 

それでも光秀さんは、あくまで礼節ある態度を崩さない。

 

(そういえば……)

 

ーーーーーーーー

武士1「知っているか、娘。光秀殿は元々、身分の低い牢人だったのだ。どうせ信長様に媚びへつらい汚い手を使って、今の地位にのし上がったに違いない」

ーーーーーーーー

 

(光秀さんは元々、身分なんて無関係に自分の力でのし上がった人だ。どこにいても相手が誰でも、この人はこの人なんだな。……嘘つきで意地悪だけど)

 

こうして一座の輪にふたりで加わっているのは、不思議と居心地がよかった。

偽装夫婦を演じていることを、忘れそうになるくらいに。

 

ひと通り挨拶が済むと、座長さんが私たちに笑顔で告げた。

 

座長「いつもは野宿するんだが、お殿様のはからいで宿を与えてもらっとるんだ。あんたらの部屋も用意しとる。荷物を置いといで」

 

光秀「助かります」

 

(宿……。嫌な予感がする……!)

 

…………

 

(やっぱり……!)

 

宿へ着くと、光秀さんと私は当然のように同じ部屋へと通された。

片隅にたたんである布団も、当然のように一組しかない。

 

(旅の間は別々の部屋で寝てたけど、これじゃプライバシーゼロだ……!)

 

光秀「飛び入りの旅芸人相手に、かなりの厚遇じゃないか。こはる、いい一座に入ったな」

 

「問題はそこじゃありません……」

 

光秀「そうヤキモキするな。布団はお前に譲ってやる」

 

「え、光秀さんは……?」

 

光秀「遠慮はいらない。俺は、お前を布団代わりにして暖を取るからな」

 

「結局、一緒に寝るってことじゃないですか……!」

 

光秀「夫婦らしくなってきただろう」

 

「ふたりきりの時まで偽装夫婦でいる必要はないでしょう……。もういいです。余ってる部屋を貸してもらえないか、宿のご主人に交渉します」

 

鼓動が騒いでいるのを悟られないよう、できる限りキッパリと言い切ると–––

 

光秀「–––やれやれ、またフラれたか」

 

返された笑顔に、胸を衝かれた

(……っ、なんで、そんなふうに笑うの?)

 

光秀さんの目元には、一抹の切なさが浮かんでいるように見える。

 

(そんな顔を向けるのも、夫婦のフリの延長なの……?)

 

熱いかたまりが、喉元へとせり上がってくる。

 

「振るも何も……私はあなたに、好かれてないじゃないですか」

 

光秀「ん?」

 

「っ……夫婦ごっこははもう充分です。思わせぶりなことを言うの、やめてください」

 

(光秀さんの意地悪は、身体に毒だ。甘くて、苦くて、このままじゃいつか……心臓が壊れる)

 

光秀「美香……」

 

(っ、なんで、涙が……っ)

 

瞳を覆っていく熱い水が溢れ出さないよう、急いで瞬きを繰り返す。

 

光秀「–––からかいすぎたな」

 

不意に、低い声がいっそう甘さを増し……

 

(……!?)

 

いたわるように目元にキスされ、涙が引っ込んだ。

 

光秀「先に行っている。宿の主人との交渉が済んだらおいで」

 

私の頭をひと撫でし、光秀さんはさっさと背を向ける。

 

(だから……っ、あなたのこういうところが、困るのに……!)

 

「こういうことをするから……っ、私はあなたが、嫌いなんです……!」

 

光秀「そういうことを言うから、俺はお前が、可愛くて仕方ない」

 

「……っ」

 

手元にあった手ぬぐいを、思いっきり投げつける。

素早く閉まった障子にペシャンとぶつかって、丸まった布は畳に落ちた。

ひとり残され、口づけられた箇所を手でそっと押さえて座り込む。

 

(嫌い、嫌い、嫌い……。あなたが、大嫌い……っ)

 

このぐちゃぐちゃな感情の正しい名前なんか、知りたくない。

私は『嫌い』のひと言で、必死に心を塗りつぶした。

 

…………


顔を洗って一座の元へと戻ると、辺りが何やら騒がしくなっていた。

 

(舞台の上に誰かいる……。一座の人じゃなさそうだな)

 

きらびやかな服をまとった三人の男性が、人垣の合間に見え隠れする。

村の人たちはどうやら、舞台に立つ彼らを見物に詰めかけてきたらしい。

 

(うーん、人手がすごくてよく見えない)

 

光秀「美香、こっちだ」

 

人混みの外れにいた座長さんと一緒に、光秀さんが手招きする。

 

(何ごともなかったような顔してる……。っ……私だって……)

 

平気な顔を作って、私はふたりに歩み寄った。

 

「……何かあったんですか?」

 

光秀「お殿様が、舞台の様子を下見にいらっしゃったそうだ。『特別なお客様』を連れてな」

 

(特別なお客様……?)

 

座長「わしらなんか足元にも及ばない、ど偉いお方なんだそうだ!」

 

「一体、誰なんですか?」

 

座長「わしら平民にはよくわからんが、とにかくとんでもなく偉いお方だよ。あのお方のために、この国あげて祭りをして、おもてなしするほどだからな」

 

(とんでもなく偉い方って言ったら、私には信長様以外、思いつかないな……)

 

「どんな方か気になってきました。ちょっとそばで見てきます」

 

光秀「俺も行こう」

 

座長「押しつぶされんように気をつけてな」

 

光秀さんに庇われながら、お互いに無言で人波をすり抜け、舞台下から目を凝らす。

派手な着物をまとい、得意げにあれこれ同行者に語りかけている男性が、恐らくこの国の大名だろう。

 

声は聞こえないものの、どうやら今度ここで行われる祭りについて解説しているみたいだ。

 

(あの人が、謀反を企んでるかもしれない大名か……。見た目は普通のおじさんだけどな)

 

その時、しゃべり続ける大名の視線が、私の方へと降ってくるのを感じた。

 

(今、こっちを見た……? 気のせいかな)

 

大名の関心はすぐさま、隣に立つひとりの男性へと戻る。

 

その人を目にした瞬間、スッと背筋が冷えた。

温度を感じさせない静かな瞳が、私たち群衆の上を滑っていく。

まるで–––そこには何も存在しないかのように。

 

(この人……怖い……)

 

とっさに顔を横に背けると……

 

光秀「…………」

 

(光秀さん……? あの怖い人を、じっと見てる。もしかして、知ってる人なのかな)

 

尋ねかける前に、舞台上にいたもうひとりの人物が私の目を奪った。

 

(義元さん!? どうしてここに……?)

 

ーーーーーーーー

義元「君もこの反物が気に入ったの?」

 

「はい。染めが繊細で、鮮やかで……とても綺麗です」

 

義元「気が合うね。俺も、そう思っていたところ」

ーーーーーーーー

 

(義元さんは佐助くんの仲間……。本来なら越後にいるはずの人だ。あの大名は上杉武田とつながってる? それとも何か別の事情が……? どうしよう、光秀さんに話すべきかな……。あれ?)

 

振り向くと、光秀さんの姿が消えている。

 

「光ひ……光さんっ?」

 

座長「おーい、美香さん!」

 

(座長さん……)

 

人混みをかき分けてやってきた座長さんが、人の良い笑みを浮かべた。

 

座長「光さんがな、暗くなる前に市で買い出しをしてくるそうだ」

 

「あ……そうですか」

 

(買い出しはきっと建前だ。光秀さんは、謀反の可能性があるかどうか情報収集しに行くんだろうな)

 

見知らぬ土地では逃げようがないから、私の監視はいらないと踏んだのだろう。

 

(だからって、黙っていなくなることないのに。もしかして……光秀さんなりに、さっきのことを気まずいと思って……?)

 

座長「美香さん、今日はもういいから宿でお休み」

 

「あっ、はい。恐れ入ります」

 

座長「本番は明後日の夜だ。明日から忙しくなるぞ」

「ありがとうございます。頑張りますね」

 

(さっきのことを、光秀さんが少しでも気まずいと思ってくれたなら……)

 

とっさに投げつけた『嫌い』という言葉の強さが、今さら胸に迫り、後ろめたさに襲われた。

 

(言い過ぎだった。私はあの人が、嫌いになれなくて困ってるのに……。あの人の意地悪を、もっと上手に受け流せるようにならなきゃ。とりあえず……光秀さんが帰ってきたら、笑顔で『お帰り』を言おう)

 

そう心に決め、宿への帰路をたどっていると–––

 

???「おい、そこの娘! 止まれ!」

 

(えっ、私……?)

 

武士らしき男性が、風を切って歩み寄ってくる。

 

武士「先ほど大舞台のそばにいた娘だな?」

 

「はい、そうですが……」

 

武士「とある貴人がお前を見初め、茶の席へ招いてやると仰っている」

 

(え……?)

 

武士「ついて参れ」

 

「そんな、急に言われても……」

 

武士「踊り子風情が武士に逆らう気か? いいから来い!」

 

(きゃ……っ)

 

私の手首を掴み、武士は有無を言わさず歩き出す。

見ると、もう片方の手は刀の柄にかけられている。

 

「っ、手をお離しください。……わかりました、ついて行きます」

 

武士「ふん、はじめからそう言えばいいのだ」

 

(逆らったら斬られかねない……。ひとまず言う通りにするしかない。貴人って誰だろう? ……あっ、もしかして!)

 

(きっと義元さんだ! 舞台の上から私に気づいてくれたんだ。この土地で顔見知りの貴人といったら他にいないし、間違いない。義元さんは大名と一緒に行動してた……。謀反の噂が本当か、知ってるかも。どうしてこの国に義元さんがいるのかも気になるし……)

 

「お屋敷はどっちですか? 急ぎましょう!」

 

武士「……? ああ、構わんが……」

 

武士の背中を押すようにして、先を急ぐ。

 

(招待を断っても、引きずって連れていかれるだけ。だったら、チャンスに変えるんだ。知らない土地で単独行動するのは怖いけど、できる限りのことはしよう。少しは織田軍みんなや……光秀さんの仕事の役に立てるかもしれない。どこへ行くか知らせる方法がないから、暗くなる前には宿に戻らないと)

 

…………

 

大名「ようやく来たか、娘」

 

(あれ……?)

 

勇み足で向かった私を待ち受けていたのは、義元さんではなかった。

 

???「…………」

 

(この人、さっきの……!)

 

大名「何を呆けておる、義昭様にご挨拶せい!」

 

「こ、こんばんは……」

 

義昭「…………」

 

義昭と呼ばれた男性は、私に一瞥もくれず、つまらなそうに盃を傾けている。

 

(無視された……。何者なんだろう、この人。招いたのが義元さんじゃないとしたら、そもそも私に何の用なの……?)

 

大名はにやにやと笑いながら、値踏みするような視線を私に向けた。

 

(感じの悪い笑い方……)

 

「あの、茶の湯に付き合うようにと伺ったんですが……」

 

大名「真に受けたのか? あはは、初心な娘よのう」

 

大名が、歯を見せて笑う。

 

大名「お前をわざわざ招いてやったのは、今宵、義昭様の夜伽の役目を命じるためだ」

 

(な……っ)

 

招待の意味を悟り、虫唾が走った。

 

大名「義昭様、いかがでしょうか? この娘なら一夜のお相手に事足りるかと」

 

義昭「……そうよのう」

 

大名「旅芸人の踊り子のようですが、湯浴みをさせ着物を与えれば、まあ見られるようになりましょう」

 

義昭「……ああ」

 

揉み手する大名に対し、義昭という人は気のない返事を繰り返している。

 

(何……? 何なの……?)

 

大名「見事お勤めを果たせたなら褒美を取らすぞ、娘。義昭様にふさわしい女子を探し村の者をかき集めたが、どうにも垢抜けなくてなあ。お前ならば丁度よい」

 

義昭「…………」

 

義昭という人が、初めて私を見た。

舞台上から投げられた視線と同じ、温度がなく静かで–––道端の雑草でも見るような目で。

 

(っ……誰かにこんな目で見られたことは、今まで一度もない)

 

「馬鹿にしないでください……!」

 

大名「何?」

 

「一夜の相手なんてお断りです! 人をモノ扱いしないでください……!」

 

大名「お前……っ、このお方を誰だと心得る!?」

 

「この方が誰だろうと関係ないです。失礼させていただきます!」

 

怯える心を叱りつけて立ち上がる。

いざとなったら光秀さんに教わった護身術で応戦するしかない、そう覚悟した時–––

 

義昭「良い、良い、早々に下がらせろ」

 

(え……?)

 

大名「し、しかし義昭様!」

 

義昭「思い違いをするでない。私の夜伽が、下賤の者に務まるわけがなかろう。卑しい女を抱くなど、この身が汚れるわ」

 

(な…………っ)

 

彼はため息を漏らし、盃を優雅に傾けた。

 

義昭「不憫なことよのう。高貴な血が流れておらねば、私の唇を潤す酒一滴ほどの価値もない。ましてや、女となれば」

 

「身分が低い普通の人や女性は……人間じゃないとでも言うんですか……!?」

 

義昭「はて。家畜が何やら吠えよるわ」

 

キン、と頭の芯が凍りついた。

 

放り投げられた言葉に、骨まで蝕まれていく。

私はこの人に–––同じ人間だと思われていないのだ。

 

義昭「おい、はよう下がらせろ」

 

大名「はは! おいお前、さっさと帰れ!」

 

「…………っ」

 

頭が真っ白になった私は、その部屋から文字通り、追い払われた。

…………


–––屋敷を出てどこをどう歩いたか、記憶がない。

「…………」

 

光秀「美香……!」

 

(あ……)

 

走ってきた光秀さんに両肩を捕まれ、自分が夜道をひとり歩いているのだと認識できた。

 

光秀「探したぞ……! こんな遅くまで、一体どこへ……。……美香?」

 

顔を覗き込まれるうちに、焦点が定まってきて–––

 

光秀「何があった」

 

(…………っ)

 

真剣な声音、心配そうな目の色、肩に置かれた手の重みを感じて、呪縛が解けたように、ようやく我に返った。

 

「光秀さん、私……、私……っ」

 

それ以上は言葉が続かず、ただ、涙がこぼれ出す。

 

光秀「…………っ」

 

片腕で背中を強く抱き寄せられ、広い胸板に受け止められる。

とめどなく溢れる雫が、着物を濡らしていく。

 

(何も……何も、言い返せなかった……!)

 

飾り立てられた広間で、誰ひとり私に名前を尋ねなかった。

『義昭様』はただの一度も、私に直接話しかけようとしなかった。

あの場所で私は、人間以外の無価値な何かだった。

私自身ですらそう思わざるを得ないほどの、重く濃密な空気が支配していた。

 

(そんなわけない、絶対ない……! でも……っ)

 

「……っ、うう……」

 

光秀「美香……」

 

嗚咽が、止まらない。

嘘つきで意地悪な偽物の夫が、息せき切って私を捜してくれていた–––

その事実だけが今、世界で唯一の拠り所に思える。

 

光秀「–––帰ろう、美香。そして何があったか、すべて俺に話せ。可愛いお前を、泣かせたままにしてはおけない」

 

ことのあらましを語り終える頃には、虫の音も聞こえなくなっていた。

 

光秀「……そうだったか」

 

つっかえつっかえ話す私の言葉に辛抱強く耳を傾けながら、光秀さんは低い声で、相槌だけを口にする。

「……こんな気持ちになるなんて、想像してもみませんでした」

 

光秀「ん……?」

 

寄り添って座り、光秀さんが私の背中を撫で続けてくれている。

 

(やっと……涙がおさまってきた)

 

手のひらの形を着物越しに感じ、掠れきった声を絞り出す。

 

「元の時代で、私はぬくぬく暮らしていて、あんな扱いを受けたことがなかったんです……」

 

光秀「……そうか。五百年先は、よほど、いい世なのだな」

 

「虫けらみたいに扱われたのに、私……何も、言い返せなかった」

 

光秀「…………」

 

「悔しいです……っ。絶対に……許せない」

 

目元に熱がぶり返してくる。

 

雫がこぼれ落ちるたび、光秀さんの差し出す手ぬぐいが、そっと吸い取ってくれる。

 

「あの人たちは間違ってる。でも、あの人たちの住む世界では……私は……どうあがいたって、人間にはなれないんだと、思いました」

 

光秀「美香、それは……」

 

「乱世を生きるたくさんの人が、こんな思いをしてるなんて……っ」

 

光秀「…………」

 

(ひと握りの偉い人以外の、私と同じ一般の人たちは、価値がないみたいに扱われて……それが当然なんだと、思い込まされてる)

 

私が『義昭様』に浴びた眼差しは、今日の昼間、舞台上から注がれた視線そのものだ。

人のいい一座のみんな、『特別なお客様』をもてなそうと詰めかけた村の人たち、そして、光秀さんのことも……あの人たちは同じ人間だと思っていない。

 

「っ……あんまりです!」

 

光秀「こんな時でさえお前は、他人の心を思うんだな」

 

肩に腕が回り、引き寄せられた。

私の濡れて湿った頬と、光秀さんのひんやりしていて滑らかな頬が、ぴったりとくっつく。

 

光秀「善悪に境などないと考える俺が、断言する。お前の怒りは正当だ」

 

(光秀さん……)

 

光秀「他人の価値観に飲み込まれてしまうことはない。たとえ相手が何者であろうとだ。義は、人の数だけある。貴人連中の掲げる義もあれば、信長様が貫こうとしている義、秀吉の少々暑苦しい義もな」

光秀さんが冗談めかして眉を上げて見せるから、泣きながら少しだけ笑みがこぼれた。

 

光秀「そして美香。お前にはお前の義がある。そうだろう?」

 

「……っ、はい。あります」

 

いつの時代も、どんな理由であれ人の命を奪うのは間違っていると、信じたい。

出自や性別を理由に、人の価値を誰かが決めつけ踏みにじるのは、許せない。

 

(私の考えが、いつでもどこでも正しいこととして通用するわけじゃない)

 

戦場で光秀さんが敵将を撃ち抜いた時、そう知った。

 

(自分が絶対に正しいと思ってても、簡単に揺らいだりする)

 

この手で引き金を引いた瞬間、身体を駆け抜けた高揚は、忘れられない。

 

(でも……)

 

ーーーーーーーー

光秀「人殺しに礼などするな。俺は人を殺め、そうすることでお前と共に生き抜いた。お前はその現実に傷ついた。割り切れないんだろう? だったら、そのままでいればいい」

ーーーーーーーー

 

(光秀さんはあの時、そう言ってくれた)

 

平和な現代で生まれ暮らし、乱世での激しい日々を駆け抜けながら、懸命に育ててきた私なりの義を、他の誰でもない私が、放り出すわけにはいかない。

 

光秀「善悪の見分けのつかない中で、義と義がぶつかり合うのが、この乱世だ。–––だからといって、何人たりとも、お前の尊厳を冒すことは許されない」

 

低い潤った言葉が、身体じゅうに沁みていく。

 

「っ……もう、泣きません。あの人たちの言葉に、二度と負けません」

 

(きっとこの先、光秀さんの言葉が私を支えてくれるから)

 

自分を信じたいと思った。信じられる自分でありたいと思った。

 

光秀「強い子だ。–––よしよし」

 

光秀さんが囁きながら、私の頭を何度も撫でる。

 

(……っ、こんなふうにされたら……)

 

「また、泣いちゃうじゃないですか……っ」

 

光秀「何を構うことがある? 俺はお前の夫だぞ。お前の泣き顔を見ていいのは、俺だけだ」

 

「光秀さん……」

 

力強い眼差しが、凍えた私の身体を溶かす。

ズタズタになった心を覆い、手当してくれる。

そして……彼の裏切りを知ってから、かたくなに距離を保とうとしてきた私の努力まで、台無しにした。

 

「今の言葉も、してくれたことも、全部……夫婦のフリ、ですか?」

 

光秀「ん……?」

 

「こんなふうにされたらどうしたって……私はあなたを、信じたくなってしまいます。どうしたって……あなたの中に、優しさを見つけてしまう」

 

あなたが注いでくれる感情が優しさじゃないなら、何だというんだろう。

 

光秀「…………」

 

目の奥が一瞬、揺れた気がしたのは、気のせいだろうか。

 

光秀「……もう眠れ」

 

(ここまで言っても、自分の本音は、はぐらかすんですね……)

 

光秀さんはテキパキと布団を敷くと、そこに私を寝かせた。

濡れた手ぬぐいを用意して枕元に座り、腫れぼったい目元にあてがってくれる。

 

(冷たい……。でも、優しい。光秀さんと、同じだ)

光秀「おやすみ。美香。よい夢を」

 

「光秀さんも、おやすみなさい。それから……、ありがとう」

 

光秀「…………」

光秀さん何も言わずに、温もった手ぬぐいを取り上げる。

そして私の目を手のひらでそっと閉じ、しばらくそのまま触れていた。

 

(安心する……)

 

光秀さんを、近くに感じる。

身体だけじゃなく、心までも。

 

(私……もう、大丈夫だ)

 

心が緩んでいくのと同時に、損なわれたものが再び、私の中に降り積もっていくのがわかる。

大きな手のひらに守られて、私は穏やかな眠りに落ちた。

…………


穏やかな寝息を立てる美香を、光秀はまんじりともせず見守った。

 

光秀「さて。可愛い妻を泣かされた借りは、返さなくてはな」

 

光秀の両目が、闇の中で、冷たく鋭い光を放っていた。