戦国【光秀】共通8話前半
秀吉「こんな時までヘラヘラ笑ってんじゃねえ……!」
柵越しに光秀さんの胸ぐらを掴み上げながら、秀吉さんが顔を歪ませる。
光秀「…………」
(秀吉さん……)
秀吉「お前、ほんとに……っ、何やってんだよ……!?」
秀吉さんが、固めた拳を振り上げて–––
(うわ……っ)
加減もせずに、柵を殴りつけた。
光秀「……やめておけ、秀吉。自分を傷つけて何の意味がある」
秀吉「お前が、それを言うのか……!?」
光秀「…………」
秀吉「……やりきれねえほど腹が立ってるんだよ。意地でも俺に『手を貸せ』と言わないお前に。こんなことになっても……まだどこかで、お前を信じたがってる自分にもだ」
苦しげに吐き出された声が、闇に吸い込まれていく。
(犬猿の仲だと思ってたけど……ふたりはきっと、ひと言で片付けられる間柄じゃないんだ)
それぞれの義と数々の因縁が、解きほぐせないほどに絡まって、彼らの間を繋いでいるんだろう。
私は口を閉ざして、にらみ合うふたりを、ただ見守った。
光秀「……お前はそんなくだらない話をしに、わざわざここまで来たのか?」
秀吉「な……っ」
光秀「とっとと出て行け。ここは、お前が居ていい場所じゃない」
秀吉「…………っ」
しん……と、牢の中に静寂が満ちた。
(そんな言い方しなくても……って、以前なら思ったかもしれない。だけど……)
光秀さんがこうまでして相手からの理解をはねつけ、断絶を選ぶのには、理由があるとしか思えない。
どうしても譲れない、彼なりの義が隠されているとしか思えない。
秀吉「……これで済んだと思うなよ、光秀」
秀吉さんは、光秀さんからゆっくりと手を離した。
秀吉「その腹掻っ捌いてでも、いつか必ずお前の本音を引きずり出す」
光秀「……物騒なことだな」
秀吉「美香。お前も一緒に帰るぞ」
「っ、でも……」
光秀「行け、美香。二度とここへは来るな。–––いい子だから」
「っ……はい」
秀吉さんは光秀さんに背を向け、怒りを鎮めるように肩で息をしながら、私を待っている。
「光秀さん、最後に、ひとつだけ……」
光秀「……何だ」
私の小さな声を聞き取ろうと、光秀さんが柵に顔を寄せた。
傷だらけのその頬に、私は触れるだけ口づけをした。
光秀「…………っ。美香……?」
「あなたの帰りを待っています」
返事は待たずに秀吉さんに並び、来た道を引き返す。
唇に残る感触と光秀さんの驚いた顔を、何度も反芻しながら。
(光秀さんのことが、ようやく少しわかったきた気がする。……あなたはきっと、裏切り者でも悪人でもない。誰かが決めた善意の外側にいる人なんですね。自分なりの義があって、それを決して曲げずに独りで貫き通そうとしてる。ただならない覚悟で。あなたの信じる義が一体なんなのか……いつかきっと、明かしてみせます)
……
足音が聞こえなくなってから、光秀は深く息をついた。
光秀「……まったく、えらい目に遭った」
散々殴られ、蹴られ、痛めつけられたことよりも、秀吉と美香にかけられた言葉の方が、光秀の心をえぐった
。
光秀「それにしても……」
頬に残る口づけの感触を、指先でじっくりと確かめる。
光秀「……まさか美香が、こんな仕返しを食らわせてくるとは」
こぼれ落ちた笑みが、顔の傷口をひどく疼かせる。
けれど、痛くてもよかった。
光秀「なかなかにくたびれたが、休んでいるわけにもいかない。さて……ひと仕事と行こう」
光秀はひとり闇の中で立ち上がり、乱れた着物の襟を正した。
……
同じ頃–––城をひそかに抜け出した蘭丸が、領土の外れの林に身を潜めていた。
蘭丸「–––以上が、ご報告のためお呼び立てした理由です」
ひざまずきながら、密会の相手を見上げる。
相手の男の顔には、斜めに走る無残な傷痕があった。
顕如「明智光秀が我らと内通していて、本人もそれを認めている、だと……?」
蘭丸「はい、顕如様。安土は今、その話でもちきりです」
顕如「……まったくもって、虫酸が走る」
顕如の瞳に激しい嫌悪と憤怒が閃く。
一方で、蘭丸の表情は安堵のためにかすかに緩んだ。
蘭丸「やっぱり何かの間違いなんですね。顕如様が同胞を傷つけた敵と手を組むわけないですよね……! それに……あの人がいくら怪しい人間でも……長年仕えた主君を裏切るなんてできっこないです」
何かを重ねているような口ぶりで呟いたあと、蘭丸はふっと視線を落とした。
蘭丸「……もうひとつ、ご報告しないとならないことがあります、顕如様」
顕如「どうした」
蘭丸「明智光秀の手によって、長らく囚われ身となっていた同胞ですが……、つい先日、激しい拷問の末に、命を落としました」
顕如「…………」
顕如「光秀の仕業か?」
蘭丸「いいえ。明智光秀がおこなった拷問は……言葉を選ばずに言うと、鮮やかなものでした。あの人は激痛と精神的な責め苦を与えたけど、命に関わるような怪我は負わせませんでした。でも……明智光秀が不在の間に、勝手に手を下した者たちがいたようなんです。遺体は……むごい状態でした」
顕如「…………」
蘭丸「恐らく、『光秀は仲間だ』と自白するように強要されたんだと思います」
顕如「……そうか」
ふたりは静かに手を合わせ、遠くへ旅立たざるを得なかった同胞のため、黙祷を捧げた。
顕如「–––何者かが私の名を騙り、光秀を陥れ、織田軍を分裂させようと目論んでいるということか」
蘭丸「俺もそんな気がします。ただ……どうして明智光秀が無抵抗で投獄されたのかは謎ですけど」
いつの間にか日は陰り、雲行きが怪しくなり始めている。
シャン、と錫杖鳴らし、顕如は荒れゆく空を睨んだ。
顕如「恨みを晴らすことなく、無慈悲に奪われた命への、供養をせねばな。信長の首を取るのは、そのあとだ」
蘭丸「はい!」
………
信玄「義元はまだ見つからないか……」
幸村と佐助から届いた文を広げ、信玄が深い息をついた。
謙信「織田軍との戦もいまだ膠着状態。奴らは、今まで以上に守りを厚くしてきた」
信玄「–––さては、内部で何かあったかな」
文には、織田軍の領土で些細な謀反が起こり、すぐに潰された事件についての詳細が書かれていた。
陰で暗躍していたのは信長の腹心である明智光秀、彼の隣にひとりの娘の姿もあったらしい。
その事件の渦中で幸村と佐助は、義元と、足利義昭を目撃したのだという。
謙信「弱さゆえに自滅した将軍の名が、なぜ今頃……」
信玄「奴だと思わないか謙信。この事件が起きたのは、こっちで謀反の動きが多発した時期と重なってる」
謙信「そんなこともあったな。小物ばかりで腹ごなしにもならなかったが。上杉武田と織田で同時期に起きた謀反自体、『何者か』による策略のうち……そう言いたいのか、信玄」
信玄「そういうことだ。なかなかに不愉快だな。他人が描いた絵図の中に、勝手に取り込まれるってのは」
謙信「–––俺の戦を邪魔する者は、見つけ出して斬り捨てるのみだ」
信玄「今回ばかりは、同感だな」
…………
日ノ本全土に不吉な蜘蛛の巣が張り巡らされていく中–––
その中心に、義元はいた。
義元「……今、なんと?」
義昭「だから『処分した』と言ったのだ。何度も言わせるでない」
義昭は脇息にもたれ、女中に酒を注がせながら、さも億劫そうに言い捨てる。
西方の小国を離れた義昭は今、京へとのぼり、とある屋敷に身を隠していた。
義昭の信奉者のひとりである屋敷の主は、義昭一行を歓迎し、一番豪奢な部屋を彼に差し出した。
先にその屋敷へ身を寄せていた義元は、祭りの夜の顛末を、義昭から聞くことになったのだった。
義元「おわかりにならないんですか? あの大名は、明智光秀に利用されただけです。それを、命まで奪うなんて……」
義昭「義元、そなたは一体何を気にしておる……? 駒の替えなら、いくらでもあるであろう」
心底不思議そうに、義昭が小首を傾げる。
義元の整った顔が、湧き上がる嫌悪によって冷たく強張った。
義昭「すべては私の思い通りに運んでおる。そなたは家臣共々、『その時』に備えていれば良い。いずれ今川家の再興も叶うであろう。私が、正しい位を取り戻した暁にはな」
義元「…………」
義昭「義元、私はそなたを買っておるのだ。私に仕えるに相応しい、そなたの血筋をな」
義元「……そうですね、余計な口出しをしました」
水晶のように澄んだ義元の瞳に、諦念の色が満ちていく。
義昭「時に、道中、珍妙な男を拾った。何かと役に立ちそうだったのでな。義元、世話は任せたぞ。『その時』には奴も連れていく」
義元「……? 承知しました」
怪訝に思いながら広間を後にすると、例の男が、廊下で義元を待ち受けていた。
元就「よう、あんたが俺の世話役だな? まあ仲良くやろうぜ、相棒」
義元「君は……」
元就「生きてた時の名は、毛利元就。あんたと同じ、死人だ」
義元「……驚いた。毛利の猛将が生きていたとはね」
元就「驚いたのはこっちだ。滅びたはずの今川家の当主が、家臣を引き連れて京に潜伏してるなんてよ」
義元「君は、何が目的で義昭様に近づいたの?」
元就「言ってくれるねえ。まるで俺が良からぬことを企んでるみてえじゃねえか」
義元「違うの? 俺は、そうだけど」
元就「……へーえ? はっ、いいねえ! 落ちぶれた将軍様と、悪だくみの似合わねえ美人当主、面白れえ組み合わせだ」
高らかに笑ったあと、元就の瞳がギラリと光った。
元就「笑わせてくれた礼に教えてやる。俺はな、見定めようとしてんだよ」
義元「見定める……?」
元就「信長を暗殺手前まで追い込んだ強者、くたばったはずの龍と虎、果ては将軍様まで……、天下布武に王手をかけた信長を、よってたかって殺しにかかってやがる。俺は、どいつを焚き付ければ撒かれた火の粉が一番燃えるか、よーく検分してるとこだ」
義元「検分して、見定めたあとは、どうするの?」
元就「みんな仲良く血みどろで殺し合って、最後は俺が、残らずブチ倒す。この国丸ごと燃やし尽くしたら、力のある者だけが生き延びる、正しい世界の出来上がりだ」
狂気めいた笑みを浮かべる元就を、義元は冷めた目で見据えた。
義元「こんな言葉は美しくないから好きじゃないけど–––君、ロクでもないね」
元就「褒め言葉、どうも。で? 我らが義昭様は一体、何を企んでやがるんだ?」
義元「それは……」
………
安土の牢獄では、光秀がひとり、じっと機をうかがっていた。
牢番「……おい、食事だ」
光秀「ご苦労」
粗末な身なりの牢番が差し入れていった欠けた椀の中身は、折り畳まれた小さな紙切れだった。
光秀「さて、飯にするか」
紙切れを開き、書き綴られた米粒ほどの文字に、光秀は目を凝らした。
光秀「あの大名……殺されたか」
読み慣れた字はさらに、越後でも小規模な謀反が頻発していたことを光秀に教えた。
光秀「となると、狙いは……」
わずかに目を閉じ、思索を巡らせ……
光秀「–––そういうことか」
見開かれた双眸が、闇の中で刃物のような輝きを放つ。
光秀「まずまずの食事だったな」
紙片を細かくちぎって口に放り込み、ひと息に飲み下すと、ほどなく、牢番が戻ってきた。
牢番「椀を」
光秀「ここに」
空の椀を差し出しながら、光秀は柵に口を寄せた。
牢番は黙ったまま耳を近づけ、声をひそめ囁かれた言葉に素早く頷き、立ち去った。
光秀「……頼むぞ、九兵衛」
牢番に化けた家臣の姿を見送ると、光秀は再び、座して沈黙を続けた。
音もなく時が過ぎ–––
やがて、近づいてくる足音が静けさを破った。
光秀「……おでましか」
ろうそくの明かりを手に、ひとりの男が現れる。
彼は簡素な身なりでありながらも、牢には似合わない上質な着物をまとっていた。
???「……光秀殿、しばらくだった」
光秀「お待ちしておりました」
光秀が微笑みかけた相手は、いつぞや境内で密会をした、ある男からの使者だった。
使者「私の来訪を予期していたと……?」
光秀「ええ。私を牢へ入れるよう手引きしたのはあなた、そして……あなたの主でしょう? 私が織田信長を裏切り、新たに仕えることを選んだ相手が、顕如だと織田軍に思わせるために。引いては……私が『真の主』と決めたお方が何者かを、隠し通すために」
使者「……なぜわかった」
光秀「少々暇だったもので。私なりに推測をしてみました。けしかける犬を見つけるのも容易だったことでしょう。私はあちこちで恨みを買っていますから」
使者「我が主の恐ろしさ、とくと身に沁みたことだろう」
光秀「このようなお手間をかけずとも、存じておりましたのに」
くす、と優美に微笑んでみせる光秀を、使者は冷ややかに見下ろした。
使者「これで、織田軍にそなたの居場所はなくなった。今すぐに我らが主のもとへ参れ。我らが主に、忠義を示せ」
光秀「もちろん、そうさせていただくつもりです」
使者「これを使え」
犬に餌でも与えるように、牢獄の鍵が投げ入れられる。
光秀「ありがたく頂戴いたします」
使者「私は先に主の元へと発つ。主の待つ地は……」
光秀「京、でしょう?」
使者「っ、なぜそれを……」
光秀「おや、当たりでしたか。あれこれ考え事をした甲斐がありました。何せ、暇だったもので」
使者「……そなたはまるで、あやかしのようだな」
使者は、魅入られたように、光秀に目を奪われていた。
その瞳の奥は何も読み取れず、底がなく、光を呑み込む闇に酷似している。
光秀「ご心配なく。私に妖力があるとしても、この先は我らが主のためだけに行使いたします。すべては–––織田信長の世を、終わらせるために」
…………
その日の深夜、城内に突然、鐘の音が鳴り渡った。
(今のは何……!?)
驚いて廊下に飛び出すと、すでにひどい騒ぎになっていた。
家臣たち「おい起きろ、すぐに身支度を整えて集まれ! 刀のある者はみな、総出で捜索に加われ!」
血相を変え、武装した家臣たちが外へと飛び出していく。
(どういうこと……!?)
家康「美香……! そんなとこでぼさっとしてないで部屋に戻って」
「っ、家康……! お願い教えて、何が起きてるの!?」
家康「……っ。光秀さんが、脱獄した」
「え……!?」
家康「あの人はやっぱり裏切り者だった……安土のほとんどの人間が、そう確信しただろうね。こうなるともう庇う手立てがない。捕まってしまえば、即座に斬り捨てだ」
いら立たしげな家康の口調は、頼むから見つかるなといいたげだ。
「家康、私も捜しに……っ」
家康「駄目に決まってるでしょ、馬鹿じゃないの? 誰かが、光秀さんをおびき出すために、お気に入りのあんたを人質に使うと言い出しかねない」
(え……っ)
家康「あんたもよく知ってるでしょ? あの人には、内部にも敵がたくさんいること。わかったら、部屋で大人しくしてなよ」
「……っ、わかった。ごめんなさい」
家康「……どうなったかは、ちゃんと知らせるから」
ためらいがちに私の髪をくしゃっと撫でると、家康は外へ飛び出していった。
…………
到底眠れず、かといって明かりをつける気にもならず、膝を抱えて朝を待つ。
みんな出払ってしまったらしく、城内は静かで、耳が痛いほどだ。
(光秀さん……今、どこにいるんですか? 何を思ってるんですか……?)
答えのない問いを投げかけた、その時だった。
–––ガタッ
(!?)
突然、窓が外側から開き、おぼろげな月の光が部屋を照らし出した。
光秀「まだ起きていたか。夜更かしは身体に毒だぞ? こはる」
「光秀さん……!?」
(嘘……。これは、夢……?)
光秀「言っておくが、夢でも幻でもない」
(思ってること、全部お見通し……。本物の、光秀さんだ……っ)
顔に影を落としながら、光秀さんが窓枠に腰かける。
光秀「……おいで。顔を、よく見せろ」
「………っ、はい」
歩み寄ると、かき抱かれた。
水を浴びてきたらしく、その肌はしっとりとして冷え切っている。
(少し、痩せた……。傷が増えてる)
たまらない気持ちになって、骨ばった身体をそっと抱きしめ返した。
光秀「おやおや、今宵はずいぶんと積極的だな」
「……っ、ふざけてる場合じゃないです。あなたは……脱獄したんでしょう……?」
光秀「早耳だな」
「これだけの大騒ぎ、嫌でも耳に入ります……!」
いつもと変わらない余裕めいた笑顔が、滲んでいく。
邪魔な涙を、手でこする。
光秀「こら、目が腫れるだろう」
光秀さんは私の手を捕らえ、代わりに自分の指先で、瞳の縁にたまる涙をすくい取る。
(この人には、泣かされてばかりいる。だけど、こぼれた涙を拭ってくれるのも、いつだってこの人だった)
光秀「助けは呼ばなくていいのか? 俺は裏切り者の罪人で脱獄囚だぞ」
「必要ありませんから」
長いまつげに縁取られた切れ長の目を、真っすぐに見つめる。
「わかったんです。あなたには、あなたの義があって……あなたはそれを貫くためなら、悪をも演じてみせる人なんだって」
光秀「…………」
「あなたが為そうとしてることが何かは想像もつきません。でも……信じられると思ったんです。あなたのわかりにくい優しさを」
光秀「まったく……見上げたお人好しだな、お前は」
(なんて言われてもいい。今すぐ答えをくれなくてもいい)
「いつか、あなたの本音にたどりついてみせます。今は明かせなくても、その時は……あなたの覚悟を少しでも、私に背負わせてください。独りで全部抱え込まずに……頼ってください」
光秀「美香……」
(ちゃんと、言えた……。今の素直な気持ちを全部)
唇をきつく結び、浅い呼吸を繰り返す。
そうしていないと、声を上げて泣いてしまいそうだ。
傷だらけで微笑むこの人のことが、好きで好きで、愛おしくてどうしようもなくて。
光秀「泣き虫のお前に『頼れ』と言われる日がくるとはな。だが、覚えておこう」
晴れやかな表情に見惚れていられた時間はごくわずかで、すぐに、遠くから鐘の音と人の怒号が響いてきた。
(いけない……、時間がない)
光秀「美香、これをお前に」
(え……?)
懐から差し出されたのは、水色桔梗の髪飾りだ。
光秀さんは、よれた花びらの端をピッと伸ばしたあと、傷だらけの手で私の頭に飾ってくれた。
「これは……」
光秀「何、ちょっとした餞別だ。思った通り、よく似合う」
「これを渡すために、危険を冒して、会いに来てくれたんですか……?」
光秀「いや? 今のはついでだ。俺は……お前に、最後の意地悪をしにきた」
濃い影が落ちた次の瞬間–––
「ん……っ」
唇が塞がれ、息が止まった。
深くまで容赦なく口づけられて……呆然としているうちに、唇は離れた。
「光秀、さん……」
光秀「そんな目をしてねだっても、続きはお預けだ」
「っ、次は……いつ……?」
無言の微笑とともに、腕が解かれる。
心地よい冷たさも、遠ざかる。
光秀さんは、仕上げをするみたいに、私の額にキスをした。
光秀「いい子にしていろ、美香。俺がそばにいなくても」
「……! 光秀さん……!」
笑顔だけ残して、光秀さんは窓の向こうの闇に姿を消した。
足音も息遣いも、気配さえももう、感じない。
(行ってしまった……)
髪飾りと乱れた呼吸、騒ぐ鼓動の音だけが、彼が今夜ここにいた証だ。
(もう、泣かない。光秀さんは『さよなら』を言わなかったから。このキスを、最後の意地悪にはさせない。次に会えたら、私の想いを、言葉にして伝える。それから……どんなにはぐらかされたって、光秀さんの本音を、教えてもらう)
甘くて優しい、数えきれない意地悪の理由も、私を叱り、励まし、乱世でひとり歩けるように導いてくれた理由も、今夜交わした、余裕のない口づけの理由も、何もかも。
(だから、これでいいんだ。また会える。絶対、会える)
そう信じられるのに。
(–––……苦しい)
あんなに甘かった口づけは、苦く切ない後味を舌先に残して、いつまでも消えなかった。